• 第1弾 加藤いつこ
  • 第2弾 三遊亭歌之介
  • 第3弾 星田英利
  • 第4弾 小市慢太郎
  • 第5弾 柳 美里

vol.2

三遊亭歌之介さん写真

三遊亭歌之介

胸にはいまも、インターハイへの憧れ

生涯、後衛。「性格的には、前衛かな」

 地方公演を主たる舞台に選び、古典落語、自作の新作落語で精力的に活動を続ける歌之介さんは、知る人ぞ知るソフトテニス・フリークだ。川口に住まいを決めたのは、強豪・川口市役所の御膝元であることが理由。入門後も自らラケットを握り、また各種大会には足繁く観戦に出掛け、選手や指導者との交流も幅広い。奥様は強豪実業団の元選手という徹底ぶり(?)である。
 ソフトテニスとの出合いは、必然だったという。
「兄と姉が二人とも(軟式)テニス部のキャプテンだったんですよ。家が貧乏だったから、もともと家にあったラケットがそのまま使えるっていうことも入部の理由の1つ。中1のときに身長が132㎝しかなかったのだけど、2学期に入ったころ『先生、前衛がしたい』と言うと『サトシ、お前ネットについてみろ』と先生。白帯の上に顔が出るか出ないかの姿を見て、『お前は後衛』――とそこで決まりました。以来、ずっと後衛。性格的には前衛のほうが合っていたんですけどね」

三遊亭歌之介さんのテニス姿

「いやあ(ソフトテニスが)大好きでねえ……」という師匠の心の背景には、いつもインターハイへの憧れがある。
 中2時に鹿児島から大阪へ移り住み、市立汎愛高校へ入学。鹿児島の中学時代の同期はのちに鹿児島代表としてインターハイ出場を果たしたというから、巡り合わせによっては自分も夢舞台に……との悔しい思いもあったのではないか。しかし、ご本人が振り返るコート上のエピソードはいつも愉快で驚きにあふれている。
「大阪府は人口も多くて、当時個人戦では1000ペアくらいあったんですね。ブロックが8つに分かれていて、各ブロックの8強が中央大会に行くことができる。私は目の前の相手に勝って、その次の明星のペアに勝てば晴れてインターハイへ……!というところまで、ようやく勝ち上がりました。そうなんです。先を見すぎました。明星のことがどこか気になっている間に、その前の試合に敗れて、私の『インターハイ』は終わってしまいました。悔しいから、自分で電車で行きましたよ、岡山インターハイ。うまいんです、これが。いえ、1回戦あたりなら、まだ『オレだって負けていないぞ』と思える選手もたくさんいます。上の方に行くと本当にうまい。私が大阪で対戦さえできなかった明星の選手が、あっさりと敗れる姿を見ました。上には上がいるんだと、実感しますね。私の唯一の輝かしい戦績は、3年の最後に戦った市立大会(団体戦)です。私たちペアは一番で全勝でした。決勝では桜宮に勝った。それが私の、ただ一度の優勝です」

鹿児島高校で思わぬ再会も

 高校卒業後の進路に落語家を選んだのは、インターハイで「本物」たちの存在を体感したことも影響しているかもしれない。自らの志向、やりたいことに正直に舵を切った。
「落語家は、当時の気持ちとしては第2希望でした。第1希望は喜劇役者。脚本を書いて、自ら演じて……という部分に憧れました。いろいろあって『新作落語』を書ける落語家をめざして上京して」
噺家として腕を磨く毎日も、ソフトテニスへの思いは続いた。二つ目(落語の世界で一人前とされる位)に昇進した23歳のころから、またラケットを持ってコートに通う生活が始まった。
「もう、好きで好きで。川口に勤労者クラブというクラブがあって、飲み屋さんでたまたまそのメンバーの方に出くわしたので入れてほしいと頼むと、『うちは試験があるから』と言う。見事に試験も通ってプレーしていると、川口市役所の有名選手たちが大会に出てくるんです。沖田、桜井、木之村――わっ。雑誌で読んでた『天才・木之村(功一)』だ――驚きましたよね。そうこうしているうちに木之村さんとは、練習で試合をすることになってしまった。しかも私、1ゲーム取ってしまった。えーって驚いていると、チェンジサイズですれ違う時に世界チャンピオンが言うんです、肩を回しながら……『さーてと』。ちょ、ちょっと待って、いまの『さーてと』って? そのあと、かるーく負けるんですけれど。私は決めましたよ。60歳になったら、もう一度試合を申し込もう。六十ではオレが勝つ! と。もうすぐですって? そうですね、まだもう少し楽しみにとっておきます」
 少年期を過ごした鹿児島は、いまでもよく“帰る”土地である。強豪の鹿児島高校に、ラケットを持って立ち寄ると、母校・汎愛高校が練習試合に来ていた――なんてこともあった。 
ソフトテニス関係者と広く交流を深めるなか、中村学園女子高校のコートで外薗茂監督からふとこんな言葉を掛けられた。歌之介さんが、ホームタウン・鹿児島に実業団チームを創設するきっかけとなった一言だった。
「歌之介師匠、そんなにソフトテニスが好きなら、実業団チームを作ればいい。鹿児島に女子の実業団を作ってくださいよ」

2013年、女子実業団チームの総監督に

 「中村学園にはよく立ち寄らせてもらっていたんです。外薗監督が鹿児島出身なものだから。『チームを作りませんか』と言われて、びっくりして。『実業団ですよ先生、勝手に作っていいんですか』『いや、いいんですよ師匠』と。確かに、九州出身の強い選手は数多くいて、九州には実業団チームが多くない。話はとんとん拍子に進んで、鹿児島県連盟の江口正純会長(当時)のところへ相談に行って、紹介していただいたのが城山観光ホテルさんでした。実は、私が想定していた会社とは違っていたんですが、『九州新幹線が通って、城山は今伸びているから』と会長がおっしゃる。2020年には国体があるからと県連盟も後押しをしてくださった。やはりこういったことは人の縁ですね」
 2013年4月の立ち上げ以来、城山観光ホテルは着実に戦績を残しつつある。2014年度現在、部員は6名。強豪校OGを含む選手たちの力で、今年は全日本実業団4位、ジュニアジャパンカップではU-20シングルスで山田選手が優勝をつかみ取った。

「チーム立ち上げ準備にあたっては、鹿児島出身の玉泉(春美。元東芝姫路、元日本代表)から『師匠、監督はしっかり考えてください』とアドバイスをもらいました。そこで、鹿児島高校で監督をされていた川畑城先生にお願いしました。『俺はもうすぐ70だぞ』と言われましたが『いいじゃないですか、コートで死ねたら本望でしょう、先生』と押し切りました。私は総監督ということになっています」
 選手はホテルの社員として働き、ソフトテニス部の強化費の一切は歌之介さんが負担する。総監督自身が、はじめに打ち出した条件だった。来年も強豪校からの入部者が内定している。

三遊亭歌之介さんのお話

庭球道を歩む

 青春時代にインターハイを夢見て、大人になっても「好きで、好きで」コートから離れられない歌之介さん。いまソフトテニスに打ち込む中高生たちへのメッセージは、「心」の大切さだ。
 「ソフトテニスは勝ち負けだけではなくて、『庭球道』みたいなものを真ん中に据えてとらえていった方がいいと思うんですね。結局、心が強くないと勝てないんですよ。かつて東芝の金治(義昭)監督に、『カントク、玉泉と杉本(瞳。元日本代表)はどちらがうまいんですかね』と聞いたことがある。監督、『技術ならば杉本がはるかに上』と即答されてました。『ただ、玉泉はココ(ハート)が強い。だから、あの子は負けへんのです』と。のちに杉本選手もまた社会人として数々の栄冠に輝くんですが。
 礼に始まって礼に終わる。相手があっての試合、ペアがあっての試合。相手のことを互いに尊敬し合いながら試合をしてほしい。『相手に敵対心を持つ人は勝てない』という言葉もあります。これはプロ野球の話ですが、鉄腕の異名を取った稲尾和久さん(故人。西鉄ライオンズ)は、相手選手に尊敬されるピッチャーだったそうです。自分が投げ終わったあと、マウンドのくぼみをきれいにならして(整えて)からベンチに下がる。次に投げる相手選手を敬う気持ちからでしょう。実は、競技に対する愛情の表れだとも思います。相手選手はその気持ちがうれしい。そして互いに正々堂々と戦うんです。
ソフトテニスでも、そんな心を大切にしてほしい――そんな選手を育ててみたいと思っています」

インタビュー後、『ソフトテニスの映画ができるだなんて、楽しみですね』と繰り返していた歌之介さん。作品は、『師匠』も夢に見たインターハイの映像から始まる。
Text by ソフトテニスマガジン編集部
Photo BY Hideo Ishibashi 石橋英生
三遊亭歌之介さん
三遊亭歌之介Sanyu-tei Utanosuke
さんゆうてい・うたのすけ◎落語家。1959(昭和34)年4月8日生まれ、55歳。鹿児島県 肝属(きもつき)郡出身。神川中→大阪市立汎愛高。中学1年でソフトテニスを始め、高校ではインターハイ出場を目指し濃厚な日々を送る。大阪市立大会(団体)優勝。高校卒業後、三代目・三遊亭圓歌に弟子入り。前座名「歌吾」、二つ目となり「きん歌」。そして、1987(昭和62)年、18人を抜く大抜擢で真打に昇進し「歌之介」となる。2013年に女子実業団チーム「城山観光ホテル」を立ち上げ総監督に就任。サポートを続ける。夫人は、かつてヨネックスで活躍した江理子さん(旧姓・神門)。